17世紀江戸初期のキリシタン弾圧と主人公・ポルトガル人宣教師の心の葛藤が描かれた
Contents
小説「沈黙」(遠藤周作著)。
最近ではマーティン・スコセッシ監督によって映画化もされましたね。
みなさんはご覧になられたでしょうか?
その原作にも登場するのが、西海町横瀬地区です。
横瀬浦のシンボル「八ノ子島」。来航の目印とし利用され、異国の船を迎え入れました。
原作では、幕府の奉行人に捕らえられた主人公ロドリゴが長崎の地を転々と連行される場面で出てきます。
「saikaiブログ」では、
「西海キリシタン歴史めぐり」シリーズ
と題して、市内にあるキリシタン関連のスポットをめぐりご紹介していきます。
一緒にめぐり、案内していただくのは…
「西海史談会」事務局長、「西海ガイドの会」でガイドを務める岸本 徹也さん。
地元・中浦地区の歴史をはじめ、長崎県のキリシタンに関する知識がとっても豊富。教科書に載っていないようなワクワクする“歴史エピソード”を教えてくれます。
第1回目は…
“南蛮船来航”、日本初“キリシタン大名誕生”の地
横瀬浦からスタート!
まずは「横瀬浦公園」から。
岸本さん: 「当時建てられた教会の跡は何も残っていませんでしたが、南蛮船来航400周年を記念し、昭和37年にこの『天主堂跡』碑が作られました。」
「横瀬浦公園」は、布教の自由が与えられ建てられた教会の跡地。
小高い丘に建てられた教会は、来航する船からも良く見えたのでしょうね。
毎週日曜日には、横瀬浦集落だけでなく豊後、平戸、博多から
教会がいっぱいになるほど多くの人が集まったそうです。
公園から下って、横瀬地区を散策します。
現在、横瀬浦-佐世保を結ぶ高速船乗り場前辺りにあるのが
「南蛮船来航の地」の碑。
碑の周りには、ポルトガル大使の方が訪れた記念の植樹など
現在も続く長崎-ポルトガルとの友好関係がうかがい知れます。
横瀬浦が“長崎の原型”といわれたり、世界とのつながりを象徴しているのが残された“地名”です。
「上町」「下町」跡の碑。
岸本さん:
「丘など高低差のある土地で『上町(うわまち)』『下町(したまち)』
という名前の付け方は、ポルトガル人が作った町の特徴なんです。
江戸初期当時、キリスト教徒や商人など外国人の人々が住んだとされています。」
長崎市内には、現在でも「上町」「下町」という地名が残されていますね。
岸本さん:
「世界的にも、上町・下町という地名が残っています。
現在のポルトガルでは、アルト(上町)、バイシャ(下町)として残っていて、
その昔ポルトガル領であったブラジルの港町にも上町・下町という呼び名が残っているんですよ。」
旧上町から小高い丘に登り、現在の長崎市内にも残る地名
「丸山」「思案橋」跡もめぐってみました。
「丸山」は遊女町があったとされる場所。現在では、「長袖様」と呼ばれる遊女のお墓が残っています。周辺は畑として利用されていますが、近年設置された太陽光パネルも…時代の移り変わりを感じました。
「思案橋」跡、現在は橋のモニュメントだけが残されています。
長崎市内の「思案橋」は、現在でも繁華街。
横瀬浦にあった「思案橋」や「丸山」も、かつてはポルトガル人が持込んだ
ワインなど、お酒を飲んでにぎやかに過ごした場所だったのかもしれません。
最後に、現在の「横瀬浦公園」の真下あたりへ。
「小波止」と看板があります。
岸本さん:
「当時はここまで入り江が続いていて、船着場だったんです。
大きな船で来航した後、小さな船に乗り換え、教会の真下まで船で入って来たのかもしれません。」
確かに、石塀がその雰囲気を物語っています。
長崎の「大波止」にも名前が似ていますね。
大村純忠が横瀬浦の教会へ通うために構えた
「大村舘(おおむらやかた)」跡を通り、スタート地点の「横瀬浦公園」へ。
キリスト教の布教と貿易で栄えた横瀬浦でしたが、焼き討ちに遭い
その栄華は、わずか1年あまりで跡形も無くなってしまいます。
けれど、残された地名やわずかな記録がその歴史が物語り、
世界的にもつながりがあったことが推測できる…
横瀬浦が一瞬でも世界に開かれていたことが感じられる
興味深いエピソードでした。
旧「丸山」からの眺め。
映画や小説をきっかけに、歴史へ興味をもった方はぜひ、
“長崎の元祖”横瀬浦にも足を伸ばしてみてはいかがでしょうか?
「西海キリシタンの歴史めぐり」シリーズは「Saikaiブログ」へ
・「Saikaiブログ」Top→こちら