今日は私の永遠のテーマ『料理が致命的に苦手』という話しから
本当は弁当作りもイヤ
という話しをしていこうと思う。
結婚した当初は、毎日旦那の弁当を作っていた。何をどう作っていたかは覚えていないが、たぶん今と変わらず『チンチン弁当』だったと思う。
『チンチン弁当』とは、みなさんもうお分かりだと思うが
冷食を『チン』とするから『チンチン弁当』である。
しかし、ありがたいことに旦那の職が変わり、弁当を作らなくてもよくなったのだ。
弁当は作らなくていいし、職場は近いので朝からそうバタバタしなくてもいい。朝にゆっくりできるなんて、もうウハウハであった。
やがて子ども達が保育園、幼稚園へ行きはじめ、たま~に『まめ』のように小さいアンパンマンやキティちゃんの弁当箱におかずとごはんを入れて持って行く日があった。
『まめ』のように小さい弁当箱には卵焼きとウインナーとミートボールを入れると、すでにパンパンである。
いつも「こんな弁当でいいのか?」「いや、もはやこれは弁当と言っていいのか?」と自問自答しながら幼稚園バックに入れていたのを思い出す。
あんな弁当を食べたからか、長男は味年よりだし、次男は偏食大魔王だし、娘は我が家の家系にはない「がっちりとした体形」の持ち主になった。
だが救いの手はあった!
給食である!
西彼町は小学校も中学校も給食があるのだ。
自分が中学生のときには給食がなかったので何とも思ったことはなかったが、母になった今、中学校でも給食があるなんて、私にとっては神様、仏様
給食様!!!
給食のおばちゃん達は神様だ!
それに西彼の給食は長崎市内から転勤してこられた先生方が必ず「おいしい!」と驚くそうだ。
給食の残食も比べ物にならないくらい少ないらしい。
それだけ『美味しい給食』なのだろう。そんな給食なら是非とも食べてみたかった・・・。
美味しくて栄養のある給食を小学校と中学校の9年間、しっかり食べて育った我が家の子ども達だったが、またもやピンチが訪れる!!
高校進学!
これはもう弁当作りから逃れられない。
と、思ったらそこへまた希望の光が私を照らした!ピカリン!
長男が学校の寮に入ることになったのだ。ということは、弁当作りは一旦回避!次男が高校進学するまでの2年間、猶予をいただいた。
ぃやっほー!
しかし、自分で言うのもなんだが、ここまでかたくなに弁当作りを拒絶する母なんて、私以外にいるのだろうか?
料理嫌いな母を持ってしまった我が家のみなさんが不憫でならない・・・(笑)
さて、それから次男と娘が高校へ行きだし、その5年間は毎日早朝に起きて弁当を作ってきた。
この時はゴールがあった。高校を卒業するまでのそれぞれ3年ずつ、1年間は高校生活が重なるので計5年。
その5年間を踏ん張れば、晴れて私も弁当作りから
『卒業~♪』 尾崎豊風に『卒業~♪』
『卒業』というゴールまで「あと少し」「あとちょっと」と自分を奮い立たせ、頑張って作ってきた。
毎回同じ内容のおかずを詰めながら「この人たち、飽きんとやろか?」と思う反面「これしか作れんのよね~」と開き直るマインドも手に入れた。
次男は何も言わなかったが、娘はやはり女子なのでたまに
「今日の弁当茶色一色やった」
と、弁当の中身の色彩について厳しいご意見を受けることもあったが、そんなこんなでその5年間もいつの間にか過ぎて行った。
次男のときにはすっかり忘れていたので、娘の最後の弁当の日、そして私の弁当作り卒業の日は是非ともキャラ弁を作って、盛大に弁当作りとお別れしようと百均でキャラ弁グッズを大量購入してその日に備えた。
なのに前日から体調絶不調。
どうも職場で怪しかった、ウイルス的なサムシングが私にも飛び火感染してるような体調の悪さ。
しかしキャラ弁を作り上げなければ私は弁当作りを卒業できない!
結果、キャラ弁といえるのか・・・アンパンマン風にデコレーションしたおにぎりをヒーヒー言いながら作り、弁当箱にコロンと入れるので精いっぱいであった。
そして私はその『ラストコロン』で弁当作りを卒業した。(祝)
・・・・・・
と、思っていたら!
高校卒業して県外に行っていた次男がご帰還。西海市内で再就職したのである。
何を意味するのかと言うと
弁当作り再開。
やっと卒業したのに、なんだかまた入学してしまいました。
何がツライって、今回は
ゴールが見えない!
高校の時のように「3年したら卒業」ではないのだ。先の見えない弁当作りに足を突っ込んでしまった。
まぁ私の作る弁当に文句も言わず、帰ってきたらちゃんとシンクに弁当箱出してくれる良き息子なので、私は先の見えない弁当作りを全うする覚悟を決めた。
それに私には最強の味方がついてるので、怖いものはない!
ウエストのからあげは、晩のおかずだけではなく、弁当のおかずにもなっているという驚愕の事実。あなただけに教えてあげよう・・・。(笑)